
ジャカルタ首都特別州
- 1. 人口
- 10,562,088人
人口密度16,262人/km2 - 2.面積
- 662 km2
- 3.宗教・種族構成
- 【宗教】イスラム教 (86%)、プロテスタント (6%)、カトリック (4%)、仏教、 (4%)、ヒンズー教・儒教
【種族】ジャワ族 (35%)、ブタウィ族 (28%)、スンダ族 (15%)、華人 (6%)、バタック族 (4%)、ミナンカバウ族 (3%) - 4. 気候
- ジャカルタは熱帯モンスーン気候 に属し、高温多湿である。気温は一年中ほとんど変わらないが、赤道に比較的近いにもかかわらず明確な雨期と乾季がある。7月から10月前後は乾季であり、12月から4月前後は雨季にあたるが、最近は雨季と乾季は異常気象もあり不定期。ジャカルタで最も降雨が多いのは1月で、389.7 mmの降雨がある。逆に最も降雨が少ないのは9月で、月平均降水量は30.0 mmである。
- 5. 地理
- ジャカルタの北部の海抜は低く、南部は丘陵地となっている。そのため河川は南部から北部へと流れ、最も重要な河川はチリウン川で、ジャカルタ市域のほぼ中央を流れている。これらの河川は、ジャカルタの低い地形、潮の干満、そして雨季の降水量によってしばしば氾濫を起こす。特にジャカルタの後背地であり水源である南部のボゴール市やデポック市は、都市化による人口増加と森林伐採によって近年洪水は被害を拡大する傾向にある。近年は地盤沈下が進行しており、ジャカルタは毎年5 から10 cmずつ沈んでいると言われている。
- 6. 行政区
- ジャカルタ首都特別州には5つの行政市(日本の政令指定都市の行政区に相当)と、リゾートとして知られる島嶼部のクプラウアン・スリブ(千の島)から成る1つの行政県がある。中央ジャカルタ市、北ジャカルタ市、南ジャカルタ市、東ジャカルタ市、西ジャカルタ市、クプラウアン・スリブ県。
- 7.拡大行政地区
- ジャカルタ行政区を含めた4地域をまとめて、ジャボタベック (Jabodetabek) と呼ばれている。これは、ジャカルタ (Jakarta) と西ジャワ州のブカシ市 (Bekasi)、ボゴール市 (Bogor)、デポック市 (Depok)、バンテン州のタンゲラン市 (Tangerang) の頭文字を繋ぎ合わせたもので、ジャカルタ首都圏の呼称として定着している。
- 8. 首都移転計画
- 交通渋滞・自然災害などを理由にジャカルタのあるジャワ島外に移転すると首都移転が計画され2019年に閣議決定された。ジョコウィ大統領は同年8月、自身のTwitterで首都の移転先をジャワ島からジャワ島外へと首都移転すると発表。新首都の最適候補地としてカリマンタン島東岸の東カリマンタン州クタイカルタネガラと北ブナジャムパスル県の両県にかかる地域であるバリクパパン近郊であるとした。なお移転にかかる経費は466兆ルピアと膨大な費用がかかる上、2020年以降は新型コロナウイルスの感染拡大の影響もあり、具体的な動きは先送りされた。2024年以降に計画の再始動が予定されているが、実現は2030年代後半以降になる見込み。最終建年は独立100周年の2045年としている。2022年1月18日、このバリクパパン近郊の新首都名を「ヌサンタラ」とすることが国会で可決されたことをスハルソ国家開発企画庁長官が明らかにした。
- 9. 歴史
- 古くはスンダ・クラパ(スンダのココナッツの意味、397年 から1527年まで)と呼ばれていた。1527年、イスラム軍がポルトガル軍を攻略・追放してこの地を手中に収めたから1942年)に改めた。第二次世界大戦中、1942年に日本軍がこの地を占領、ジャカルタ(Djakarta, 1942年から1972年)に改められ、1950年のインドネシア共和国成立後もこの名称が使用されたが、1972年に綴りがインドネシア語正書法のJakartaに改められた。昔はジャガタラ (Jacatra) とも呼ばれ、オランダとの交易を持った日本では、江戸時代以降この名が定着し(ジャガイモもこの名に由来)た。ジャカルタの名称は、サンスクリットのジャヤ([栄光・勝利])+カルタ(達成・獲得)の二つの単語から作られた合成語が起源。ジャカルタはもともと、16世紀まで、西ジャワのパジャジャラン王国の港町、スンダ・クラパとして発展。14世紀に成立した中国・明朝の時、インドネシアの海域は中国交易ネットワーク(鄭和時代)に組み込まれていた。スンダ・クラパもまた、この海域の他の港市とともに、中国との朝貢貿易や私貿易、中継貿易で重要な港町として発展。16世紀末、この海域でのポルトガルの香辛料独占に対抗するため進出してきたオランダは、西ジャワの王族の内紛に介入、その一方に軍事援助を行う見返りとして、ジャヤカルタを手に入れた。その後、オランダ領東インド会社の基地として、さらに後にはオランダ領東インド会社の中心都市として発展。また、街の周囲には運河兼用の掘割が張り巡らされ、石やレンガ造りのオランダ風の建物が立ち並び、当初「東洋の真珠」と呼ばれる美しい町並みとなったが、この町並みはジャワの気候とは必ずしも合っていなかった上に、城壁内の風通しが悪かったことや周囲の水質悪化によって死亡率が非常に高くなり、やがて「東洋の墓場」とも呼ばれるようになった。1811年にはイギリスがバタヴィアを占領し、イギリス領東インド会社の下でトーマス・ラッフルズが副総督としてこの地を統治、1817年にはオランダ王国へと返還され、再びオランダ領東インドの政治的中心として発展していった。1873年にはジャカルタとボゴール間に鉄道が開通、1877年には市の北東に新港であるタンジュンプリオク港が開港。ジャカルタの市街地は19世紀から20世紀初頭にかけて南へと一貫して伸びていった。1912年にはウェルトフレーデン(サリナ地区)の南のゴンダンディアが白人居住区となり、さらに南のメンテン地区にも住宅街が広がって行った。
- 10.経済
- ジャカルタ首都特別州には、日系企業が多く進出、自動車・オートバイ・工業製品などの生産を行っている。日本企業の工場は、タンジュンプリオク・プロガドゥンなどのジャカルタ行政区内やジャカルタの東側に隣接する、西ジャワ州ブカシ県に多く建設されている。都市部の人件費や物価の高騰から2000年代は東側に進出する傾向が強まり、中でもチカンペック高速道路沿いには日系商社が開発した工業団地が集中し、カラワン県などの工場団地に多く工場が建設されている。地元TV局のRCTIが石森プロダクション・伊藤忠商事・バンダイと提携して放送した特撮変身ヒーロー番組「ガルーダ戦士ビマ」は当地で撮影されている。
〇日系企業が進出している主な工業団地(いずれもジャカルタと隣接するブカシ県にある) MM2100 (Cibitung, Bekasi)工業団地、EJIP (West Karawang, Bekasi)工業団地、Jababeka (Cikarang, Bekasi)工業団地、Deltamas GIIC (Cikarang, Bekasi)工業団地、Delta Silicon (Cikarang, Bekasi)工業団地、Lippo Cikarang (Cikarang, Bekasi)工業団地、KIIC/ Karawang International Industrial City (Karawang, Bekasi) 工業団地 - 11. 日本との関係
- ジャカルタ首都特別州は東京都と友好姉妹都市関係を樹立しているが、以前ほどの活動は見られない。太平洋戦争中の前田海軍総督府は独立宣言起案記念館として整備され、当時のまま残っており、戦後のデヴィ大統領夫人邸も軍事博物館として残っている。即時独立を求めて日本軍に武器譲渡を求め、一触即発となったムルデカ広場、戦後賠償で建てられたインドネシア・ホテル、サリナ・デパート、途中まで建てられたヌサンタラ・ビル等多くの建物が二国間の歴史を物語っている。戦後、多くの二国間要人が会談を行った日本レストランとして、日本館、よしこレストラン、菊川レストラン、シマ・レストラン。戦争中の第16方面軍司令部、憲兵隊本部、その他主要旧日本軍司令部は今でも当時の面影を残し、インドネシア政府は使用している。