
ジャンビ州
- 1.州都
- ジャンビ市
- 2.人口
- 3.548.228人
人口密度 71人/km2+ - 3.面積
- 49,734 km2
- 4.地理
- ジャンビ州はスマトラ島中央部、東海岸に位置。熱帯雨林、自然がまだ残っている。
- 5.宗教
- イスラム教徒 95.08%、新教プロテスタント 3.29%、旧教カトリック 0.58%、仏教徒 0.97% 、儒教徒 0.02% 、ヒンズー教徒 0.01%
- 6.特徴
- ジャンビの名称は古代中国史書に登場し、この土地の名前は、碑文や中国の史実にも言及され、中国と長い間関係を持っていたことの証左である。中国の史書にはチャンペイ等の名前で出てくる。ジャンビは古代スマトラ・ムラユ王国の内、西暦3世紀のトゥポ王国、西暦5世紀のカントリ王国、及びサバグ王国とも推定される。また、ジャンビは東南アジア最大の広さの、スリウィジャヤ王国時代のムアロ・ジャンビ仏教寺院群が有名。3981ヘクタールの面積に広がる仏教寺院群があり、最大のものは7世紀から12世紀に栄えたものと思われる。ユドヨノ大統領になってから積極的にこの遺跡の発掘を行い、ここにスリウィジャヤ王国の首都であったと考えられ、義浄はここに留学したものと思われる。「南海帰内法伝」の中に記されている赤煉瓦の大広場もほぼ原形のままその姿を留めている。
- 7.歴史
- ジャンビ という名前の由来については、いくつかの説がある。まず、パタンガリ川地域が、マジャバイト王国に従属していたプトリ・セララス・ピナン・マサックという女王によって統治された時期、王国宮廷言語はジャワ語の影響を受け、その中でビンロウの実はジャンベと呼ばれ、女王「ピナン・マサック」の名前と共に、王国はムラユ王国ジャンベとして知られ、徐々に地元の人々はジャンビと呼ばれる様になった。次に、タナ・ピリに新しい王国が建設され、ビンロウの木がバタンガリ川沿いに繁茂し、その実ジャンベをもじってつけた説。更には、オランダの歴史書「De Oudste Geschiedenis van de Archipel」に出て来るもので、7世紀から13世紀にかけてジャンビに栄えたスウィジャヤ王国は賑やかな都市で、王国内の貿易港(パレンバン)では、ポルトガル人、インド人、アラブ人、中国人、その他の西欧人など、さまざまな国の船が停泊していたと記されている。また、中東人史家チャニアゴによって書かれた記録によれば、ジャンビのヒンズー教ムラユ王国が仏教徒の影響に陥る前、デワニという王女がエジプトの商船で夫と一緒にアラビアまで航海、戻らなかったと記されている。別の記述ではラトナ・ワリというムラユの王女が夫とともにアラブの土地に航海、アラブの商船でルフム・ジャニに移住したとしている。どちらの記述も、アラブ人とムラユ人の間に関係があったことを示しており、当時、通商関係が確立されていたと思われ、何れもアラビア文字でジャンビの港に何度も行ったとの表記がある。ジャンビとはアラビア語で比喩的には「隣人」または「親友」を意味。太古の昔の故事によれば、ジャンビの王都から海への運河を掘ったものと考えら、トゥン・テラナイという王の命令により、短期間に恐らくパレンバンへの運河を掘ったものと思われる。インドネシアの歴史の中で、スマトラの古代ヒンズー・仏教ムラユ王国の存在は重要。各地の王国の創設者の起源はジャンビのヒンズー・ムラユ、その後の仏教スリウィジャヤ王国に繋がるものと考えられる。現在のジャワ、カリマンタン、マレーシア、ブルネイ等の王国はジャンビの土地から波及、スリウィジャヤはシンゴサリ、マジャパイトに至るまで、又、近世ではマラッカからジョホール、リアウに至るまでジャンビからのビックバン的拡散とも言い得る。コイン、トゥポ、カントリが崩壊した後、ジャンビ・マレー王国が建国された。この王国に関する最も古い記述は、唐時代の961年に王峰によって編纂された「タン・フイ・ヤオ」と、宋時代の編纂された「シン・タン・シュウ」に記述がある。ジャンビ・マレー王国は西暦644/645年頃に建国されたと推定され、670年に建国されたスリヴィジャヤよりも古い。この古代ムラユ語の歴史はまだ未解明の部分も多い。多くの史実は中国語によるものも多い、地名の解釈に相違もある。今後は関係国間で、日本も含めて合同調査と会議も必要である。スマトラ島の他地域と比較して、ジャンビで見つかっている考古学的遺跡群はほぼ完全なものが多い(ムアロ・ジャンビ仏教寺院群)。これらの考古学的遺跡は、主に西暦9世紀から14世紀にかけてのもの。14世紀半ばアディティヤワルマンはジャンビにスワンナプーム王国を設立、スリウィジャヤ王国、其の他ジャンビ・ムラユ王国はこの王により征服された。また、西暦1025年、インドのチョーラ王国の攻撃によってスリヴィジャヤは一時壊滅、多くのスリヴィジャヤ貴族はパタンハリ川上流に逃げた。そして、一時はムラユ王国とも一体となった。約半世紀後、西暦1088年頃、状況は好転し、ジャンビ・ムラユ王国は崩壊の危機に瀕していたスリヴィジャヤを統一統治した。ジャンビ・ムラユ王国は再び発展、その名前はダルマスラヤ王国。しかしこのダルマスラヤの歴史的記録は余り無い。その王、スリマット・トリブワナラジャ・マウリ・ワルマデワ(1270-1297)はプティ・リノ・マンディと結婚、2人の娘を生んだ。
ジャワ・シンガサリ王国のカルタネガラ王朝は、第一回、第二回のパマラユ遠征隊を送り、ムラユ王国とスリヴィジャヤ王国を征服することに成功。ババド・タナ・ジャウィのマンクネガラン史書に、ケルタナガラは西暦1275年にジャンビを征服したと記している。1286年、ケルタネガラはアモガパチャの像をダルマスラヤ王国に送った。ダルマスラヤ王が・カルタネガラ王に感謝の印として、二人の娘、ダラ・ジンガとダラ・ペタックをシンゴサリに連れて行かせた。このケルタネガラの使節団がジャワに戻ったとき、元王朝のクビライ・カーンからの攻撃を受け、シンガサリ王国は破壊されていた。その後、シンゴサリの武将ラデン・ウィジャヤはフビライ・ハーンの軍隊を攻撃、旧シンガサリ王国の全領土を治め、マジャパヒト王国を興した。その後、ダラ・ペタックはラデン・ウィジャヤに嫁ぎ、その息子カラゲメットは後に、父親に代わってマジャパヒト王として、スリ・ジャヤネガラの称号を得た。 したがって、ダラ・ペタックの子孫が王になり、ダラ・ジンガの子孫達もマジャパヒトの宮廷の重鎮となったり、彼らはスマトラのマジャバイト王国の占領地の王となって赴任。旧ムラユ王国とスリヴィジャヤ王国の領土をカバーし、ダルマスラーヤの新しい王国はジャンビ・ムラユ、スリウィジャヤの文化を継続。 王国の中心は、現在のジャンビ トゥロ - ジャンビ ケシル村、マロ セボ、ムアロ ジャンビと推定される。 その後、アディチャワルマンが率いる王国の中心はパガルユングに移り、王国の名前は後にパガルユング王国、またはミナンカバウ王国としても知られるようになった。15 世紀初頭、マラッカ海域にマラッカ王国が台頭、ジャンビはこの王国の領土の一部となった。 1511 年にポルトガル人によってマラッカが陥落するまで、ジャンビはマラッカ王国の一部であったが、ジョホールリアウ王国がマラッカ王国の後継者としてマラッカ海域に出現。 そして、ジャンビはこの新しく設立された王国の一部になった。 ジャンビは、ジョホールがマラッカでポルトガル人と戦う時は、常に援軍を出し非常に重要な役割を果たしていた。しかし、ポルトガルとの戦争で、ジャンビは不安定なジョホール情勢に乗じて、ジャンビは独立。 1666 年から 1673 年にかけてジャンビとジョホールの間で数回の戦争があり、ジャンビ軍はジョホールの首都バトゥ・サワールを攻撃・破壊。 しかし、これは長続きせず、ジョホール王国はジャンビを倒すためにブギス人に助けを求め、ジャンビはジョホールに敗れた。 - 8.経済
- ジャンビ州の石油埋蔵量は12億7,096万バーレルと推定。石油埋蔵の中心はタンジュンジャブンティムール県、ジャンビ市郊外地区、ムアロジャンビ県。また、ジャンビ州の天然ガス埋蔵量は推定3兆5,724億4,000万m3、埋蔵量の中心地はバタンハリ県ムアラブリアン地区、ムアラブリアン地区。ジャンビ州の石炭埋蔵量は1,800万トン、発電所としての使用に適した中カロリー級石炭である。その他有望な地下資源は白鉛、錫。プランテーションとしてはゴムとパームがある。これは、国営農園で、100万ヘクタールのパーム開発と新規ゴム植え替え計画を推進中で、ジャンビの農園用地の60%はパーム農園、其の他59万ヘクタールのゴム農園があり、気象条件はアグロビジネスに適している。パームの生産量は年間100万トン、ゴムの年間生産量は30万トン。ココナッツ12万トン、お茶6万トン、其の他、州西部で生産される農産物はクリンチ米、ジャガイモ、キャベツ、トマト、大豆等。ジャンビ州の総労働力の46.88%が農業、プランテーション、漁業部門で働いている。貿易部門で21.58%、サービス部門で12.58%。産業が無いので、この地域の人々のほとんどは農産物、プランテーション分野に依存している
- 9. 日本との関係
- ジャンビ州は農林水産分野の開発ポテンシャリティーが高く、中央政府は淡水養殖開発地域センターを設立し、ここを拠点とした州内淡水養殖振興事業を推進しており、日本政府は技術協力を推進している。当週のアグロインダストリーの日イ協力の可能性は大きい。