
パプア州
- 1.州都
- ジャヤプラ市
- 2.人口
- 4.303.707人(2020年現在)
人口密度 14/km2 - 3.面積
- 319,036km2(インドネシア最大の州)
- 4.宗教・部族
- 新教プロテスタント 69.54% 、旧教カトリック 15.71%、イスラム教 14.56% 、ヒンズー教徒 0.07% 、仏教徒 0.05%
【部族】
パプア州の人々は様々な民族グループで構成され、2010年のインドネシアの人口調査によると、先住民族のパプア人は76.32%、パプア州外からの人が最も多いのはジャワ人8.39%、次いでスラウェシ人3.67%、ブギス人3.19%、マルク人2.97%、NTT人0.95%、ミナハサ人0.77%、バタック人0.58%、スンダ人0.48%、マドゥラ1人0.13%、華人人0.12%。 - 5.特徴
- パプア州はインドネシアの最東端に位置、以前はイリアン・ジャヤ(偉大なイリアン、解放戦争の勝利のイリアンとの意味)と呼ばれていた。2003年2つの州に分かれ、西部は西パプア州となった。パプア州は経済的および戦略的価値のある天然資源の可能性を秘めており、現在、政治家、資本家により更に細分化する案があり、州民は反対。中央を東西にマウケイ山脈が走り、オセアニア最高峰のジャヤ山がある。マウケイ山脈の西側にあるスディルマン山脈は、鉱物資源が豊富、銅は世界第3位、金は世界第1位の埋蔵量があると言われている。金鉱山会社フリーポート・マクモラン社(本社米国ルイジアナ州)が1967年に進出、1973年からエルツバーグ山で銅の採掘を開始し、1987年グラスバーグ山で金脈を発見。現在、銅・金・銀を合わせた採掘量は日産20万トン以上に達している。
- 6.歴史
- 人類のパプアへの移住は5万年前から始まり、遠島に位置する島々までの移住航海の可能性は低かったため、長い間、近代インドネシア文明の外側に置かれた。有史的には西暦200年頃、地理学者のプトレマイオスはニューギニア島を「ラバディオス」と記している。さらに、500年後半、香辛料を求めてやってきた中国人商人はニューギニア島を「トゥンキー」と名付けている。その後、600年後半、スリウィジャヤ王国は「ジャンキ」と呼び、1365年のクルタガマの本にも「トゥンキー」の名称で出て来る。700年初頭、ペルシャ人とグジャラート人商人がニューギニアに到着し始め、この地域で香料を探し始めたが、当時彼らはニューギニア島をパプアと呼んでいた。1300年後半、マジャパヒト王国はニューギニアを「ワ二ン」、「スラン」と呼んでいた。「ワ二ン」は、ファク・ファク地域のオ二ン半島と思われる。「スラン」はセラム島を指していると思われる。マジャパヒト王はモルッカ、ニューギニア等から奴隷を連れてきた。14世紀ティドール王国とテルナテ王国が存在したが、双方とも16世紀になって、スルタン王国になってスラウェシからアンボン諸島、パプア諸島まで広く支配した。しかし、西欧人の侵入により衰退していった。最初にニューギニアに来たヨーロッパ人探検家は地元の人々をメラネシア人と呼んだ。メラネシアという言葉の起源は、彼らの肌の色が暗黒色のため、「黒」を意味するギリシャ語の「メラ」に由来。その後、東南アジアの国々とパプアの住民と密接に交流したポルトガル人は、彼らをパプア人と呼んだ。1528年、スペインの艦隊の艦長であるアルバロ・デ・サヴェドラは、ニューギニア島を「金の島」と名付け、パプア諸島の北海岸に船を停泊させ、金を探した。1545年、スペイン出身の船乗りイニゴ・オルティス・デ・レテスは島の北海岸を旅し、ギニアと呼ばれるアフリカ大陸で見た人間と同じように、黒髪で巻き毛の人間の特徴を見たので、この島をニューギニア島と名付け、オランダ植民地時代を始めた。1606年、オランダ司令官ウィリアム・ヤンセン率いる遠征隊がニューギニアに上陸。この遠征隊は3隻の船で構成され、ジャワ島の北海岸から出航、1663年スペイン人はニューギニアから追い出された。1884年、パプアニューギニアはイギリスに支配され、同年、ニューギニア北東部はドイツに支配された。1962年8月15日、米国が仲介するニューヨーク協定が締結され、オランダから国連暫定行政機関(UNTEA)を通じてパプア西部をインドネシアに引き渡すことが決められた。
- 7.経済
- パプア州はインドネシアで経済・資源的には最も豊かな州の1つ。ジャワ島の3倍以上の面積に加えて、林産物、プランテーション、農業、鉱業漁業などの豊かで人類未踏の豊かな自然がある。マグロ等は収穫期間も長期であり、他地域より水産漁獲物量は大きい。問題は公共事業は遅れており、良好な道路インフラが整っておらず、治安の問題もある。生産拠点のエリアをつなぐ適切な産業道路網も無い。経済的潜在力は非常に高く、パプアの自然の富は非常に豊かで、まだ多くは未開発。パプアの天然資源開発は米国金鉱山フリーポート社が殆どを占めており、フリーポートの鉱業生産が減少すれば、州経済も大きく減少、金属鉱石生産は露天掘りから地下鉱山への採掘移行し生産量が減少している。政府は、2020年に港湾、空港の建設、遠隔地への道路アクセスの建設などの輸送ルートの拡充から開始、パプアのインフラを改善すると宣言している。
- 8.日本との関係
- 1942年1月、日本政府大本営は「ニューギニアおよびソロモン群島の要地の攻略を企画する」と決定、1942年3月8日、日本軍は東部ニューギニアのラエ、サラモアに上陸した。当時はマッカーサー大将が率いる連合軍との間で1945年8月15日の終戦まで戦いが続けられた。ニューギニアに上陸した20万の日本軍将兵のうち、生還者は2万名に過ぎなかった。当時は台湾高砂族による高砂義勇兵、朝鮮志願兵、チャンドラ・ボース支援のインド兵やインドネシア人兵補も戦闘に参加している。ポートモレスビーを見下ろしながら、ミッドウェー敗戦により、制空・制海権を失い、20万人の将兵はオランダ領ニューギニアにむけ山中を撤退。多くの餓死者、病死者を出した太平洋戦争の三大愚策の最大の悲劇の戦場となった。遺骨の大半は山中にあり、殆どの兵隊は山形兵団だったので、山形県の遺骨収集努力は細々と続けられたが、治安が悪く、独立武装グループがおり、遺骨収収集は進んでおらず、遺族も減り、多くの将兵の遺骨は洞窟、山中の土の中で未だに眠っている。遺骨収集のためにパプア・山形友好姉妹都市関係を構築しているが、遺骨収集までには至っていない。この意味で、日本の戦後はパプアでは決して終わってはいない。