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インドネシアあれこれ

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リャウ州

1.州都
プカンバル市
2.人口
6,493,603人
人口密度 75人/km2
3.面積
87,023km2
4.宗教
イスラム教徒87.09%、新教プロテスタント9.71%、旧教カトリック1.06%、仏教2.08%、儒教0.03%、アミニズム0.02%、ヒンドゥー教0.01%
5.地理
リャウ州はスマトラ島の東海岸の中央部に位置し、その沿岸地域はマラッカ海峡に隣接している。2004年まで、この州はバタム島とビンタン島等を含むリアウ諸島も含まれていたがこれらの諸島は2004年7月、リャウ諸島州に分割された。
6.気候
リアウ州は熱帯性の湿った気候で、平均降雨量は年間2000〜3000ミリメートル。
7.特徴
インドネシアで最も豊かな州のひとつ。天然資源、特に石油、天然ガス、ゴム、バームを生産。しかし、森林破壊が激しく、森林面積は1982年の78%から2005年の間にわずか33%に大幅に減少、現在の森林は25%以下、毎年平均16万ヘクタールの森林が消失、パーム農園になっている。森林火災も頻繁に発生し環境被害も国際的に非難され、現在、政府は環境保全、森林跡地泥炭地再開発に努めている。州の名前であるリアウという言葉の由来はポルトガル語のリオから川を意味するとも言われている。
8.歴史
(先史時代)
リアウは紀元前40、000年には人間が住んでいたと考えられている。2009年8月にクアンタンシンギンギ県センギンギ川流域で更新世の人類の石器道具が発見され、更に石器よりも古い化石も発見された。また、ここには中部ジャワのサンギアンで見つかったジャワ原人(化石)の進化種とも思われる人種がいたと推定される。州中央部のムアラ・タクス神殿跡も発見され、リアウには多くの古い人類の生活跡がある。
(植民地時代以前)
植民地時代以前のリアウは、様々な自治王国が存在、最も初期の王国であるケリタン王国は6世紀に出現したと考えられる。その領土はインドラギリヒリルのケリタン地域と推定される。この地域はその後マジャパヒト王朝に征服され、その後マラッカ王国の支配を受けた。16世紀初頭、ポルトガルの探検家トメピレスは、彼の著書「スマオリエンタル」の中で、スマトラの東海岸地域の都市はミナンカバウ王が支配していたと記している。ミナンカバウの商人はシアク川、カンパル川、ロカン川、インドラギリ川に沿って交易地帯を設立、商業自治権を与えられていた。ミナンカバウ王国は現在の州都ペカンバルで当時はセナペランと称した。18世紀の終わりまでに、スルタン・シアクはスマトラの東海岸で支配的な勢力者として存在。1761年、スルタン・アブドゥル・ジャリルシャ3世は、交易条件と領土主権の権利、および武器分野での支援に関して、オランダと独占協定を締結。外国勢力とスルタンの二元勢力が出現。当初は両者の間に対立は無かった。ラジャ・ムハンマド・アリは1784年オランダ軍がセランゴール攻撃を支援し、その他ラジャ・ハジ・フィサビリラの反乱鎮圧にも協。しかし、ベンカリスのスルタン・シアクは1873年、ベンカリスをオランダ人に手渡した。
(オランダ植民地時代)
スルタン・シアクはオランダのスマトラ東海岸への攻撃的侵略の前に抵抗できなかった。オランダは、タンジュンピナンのオランダ領東インド政府の下、リアウ居住地を建設し、シアクの領土主権を定めた。シアクのスルタンオランダとの条約に拘束され、抵抗はできなかった。当時マラッカ海峡を支配していたオランダ人とイギリス人の強力な武力と影響力の下、スマトラ島の東海岸の戦略的地域を手放し、スルタン・シアクの勢力は益々弱体化していった。
9.経済・産業
リャウ州には、石油、天然ガス、金、林産物、ゴム、バーム・プランテーションなど、豊かな天然資源がある。プランテーションは国営、民間の巨大規模の経営が行われている。現在は厳しい環境規制が行われており、森林、パーム農園の人為的野焼きは規制されている。134万ヘクタールのパーム農園より年間約3,386,800トンのパーム油(CPO)生産が行われ、116のパーム油加工工場がある。この州の石油、天然ガス、パーム、ゴム等のアグロインダストリーの経営は国際的規模の大企業により行われてている。これら大企業は、外資も多く、米系シェブロン社(以前はカルテックス)、PT Indah Kiat パルプ・製紙企業等がある。
10.日本との関係
リャウ州政府による日本留学生派遣制度があり、資金はカルテックス、シェブロン社が負担、佐賀大学に毎年派遣。彼らは4年間の留学を終えた後、インドネシアに帰国、インドネシア国内の大学院に進む者、日本総領事館、日本企業に勤める等日本とインドネシアの橋渡し役として活躍している。