
北スラウェシ州
- 1.州都
- マナド市
- 2.人口
- 2.655.970人
人口密度 191/km2 - 3.面積
- 13,892.47 km2
- 4.宗教
- 新教プロテスタント63.60%、新教カトリック4.40%、イスラム教30.90%、ヒンズー教徒0.58%、仏教徒0.14%、儒教徒0.02%
- 5.地理
- スラウェシ島はインドネシア中央に位置、アルファベットの「K」や「蘭の花」に例えられるユニークな形の島。北スラウェシ州はその最北東端に位置する州。北スラウェシ州には合計287の島々があり、うち59島に人が住んでいる。気候はモンスーン熱帯気候。11月から4月にかけては北海岸に雨をもたらす偏西風があり、5月から10月には乾燥した南風。平均最高気温は30°C、平均最低気温は20.4°C。温度または温度は、100メートル上昇ごとに温度約0.6°C低下。高原地帯は涼しい。
- 6.特徴
- 半島先端に位置する州都マナドは香辛料貿易の拠点として開かれた港町。北スラウェシには多くの火山がある。ミナハサ県を中心としたミナハサ高原は、北スラウェシ文化の中心地、色白のマナド美人の地。ミナハサ半島から北上するとフィリピンのミンダナオ島。北スラウェシはかつてフィリピンの延長線上でスペインに統治された元スペイン領。故に北スラウェシの共通語であるマナド語にはスペイン語の単語も数多く含まれている。香辛料を求めて欧州人が北スラウェシを目指すようになったのは16世紀のこと。17世紀のスペインによるカトリックの布教を経て、19世紀にはオランダによってプロテスタントが伝播。以降、北スラウェシはオランダ12番目の州と言われるほどオランダ文化を受け入れてきた。現在も州人口のおよそ7割がキリスト教徒。
- 7.歴史
- この地帯には多くのプレートがあり、分かれていた大陸がぶつかり合って一つの島となった。中央にはウォーレス線(豪州とアジアの生物生態分離境界線)が通っており、興味深い固有種が多く生息する島としても知られている。北スラウェシ地域は人類と動物の移動通過地としては非常に重要で且つ興味深い。氷河期のこの地域の地形変化は数百万年前から続いており、スラウェシ島とフィリピン本土、さらにはアジア本土をつなぐ役割も果たしている。氷河期が終わった後、北スラウェシはスラウェシ半島とその北部の群島を形成する陸塊となった。これは太平洋・フィリピン・オーストラリアプレートとサンギヘプレートとハルマヘラプレートの間の構造プレートの衝突により隆起と沈み込み領域が交差、火山の出現と地震が頻繁に発生。スラウェシ火山、ハルマヘラ火山、サンギヘ火山等はサンギヘプレートとハルマヘラプレートの沈み込んだ結果。モルッカプレートは、東部ハルマヘラに沈み込んだ地帯と、西部のサンギヘの沈み込んだ地帯がある。スラウェシ島、サンギヘ島、ハルマヘラ島の火山は、モルッカプレートから圧力がかかり、無力圏マントルのマグマが押し出された。何れも遠い将来にはモルッカ海に沈み込むと推定されている。調査によれば、北スラウェシの人類の生活跡は、サリバブ島のリアンサル洞窟で3万年前の遺跡が発見されている。また、6,000年前のカカス貝塚、カラケラン島アランカアのリアントゥオマネエ洞窟の4,000年前の人類の遺跡等も発見されている。インドネシア東部地域は、アジア地域と太平洋諸島をつなぐ架け橋として重要。長い間太平洋地域への重要な人類の移動の拠点経由地として役割を果たした地域である。氷河期、海水位が低下した先史時代、人類、動物の移動において、この地域を一度は通過している証拠として、北スラウェシのサンギヘ諸島のピンタレンで発見された古代ゾウの牙(ステゴドン、フィリピンも同様)の化石、および中央スラウェシ州ポソのナプー渓谷の古代動物の大臼歯、ならびに南スラウェシのカベンジ等にも色々な化石が発見されている。北スラウェシの古代遺跡には、タラウド、ミナハサ、ボランモンゴンドウの古代洞窟があり、ミナハサにはワルガ石墓が点在。北スラウェシの正方形の石のつるはし型石器(新石器時代)文化遺跡、ミナハサの貝塚遺跡、墓の塊、古い金属時代の文化(古金属)の遺跡、スラウェシ諸島と北マルク諸島に散在する巨石の文化遺物(大きな石の文化)も発見されている。この地域は、西のマダガスカルから東の太平洋諸島のイースター島、北のフォルモサ島に拡大発展したオーストロネシア系の重要移動拠点(起点)とも考えられる。オーストロネシア語を話す民族グループによってもたらされた文化は、正方形のツルハシの新石器、大きな(巨石の)石で作られた遺跡、粘土の塊を使った埋葬等文化的遺産は共通。他の地方の文化の痕跡は北スラウェシ州に多く見られ、新石器時代の石器もタラウド地方の洞窟、ボランモンゴンドウ洞窟、オルフタ地域で発見されている。その後13世紀マナドにボウォンテフ王国が存在していたが消滅し、1500年から1678年にかけてマナド王国が設立された。近代に至り、最初にスペイン人がマナドに要塞を建設、それ以降ミナハサはスペイン人によって支配された。スペインの植民地化に対する現地側の抵抗は1660年から1664年にかけて最高潮に達した。1660年オランダ艦隊がマナドに上陸、マナド王国と貿易条約を締結、交易を独占。その後、1700年代、ラタハンで現地側は抵抗したが、トンダノでの1809-1811年のミナハサ・オランダ戦争で王国側は完敗した。
- 8.経済
- 自然現象は地震や火山噴火など様々な災害をもたらす一方、台地を豊かにし、自然の美しさ、サンゴ礁の美しさを含む山々や海洋の自然の豊かさを北スラウェシに提供している。また、北スラウェシは何百年も前から世界的に有名だった香辛料の生産地。同様に地下資源には金、銀、鉛、亜鉛、銅などの経済的価値の高い鉱物を産している。北スラウェシはブナケンなどの海洋公園の他、金鉱山、大型クローブ、ナツメグ、ココナッツプランテーション、そしてアノア(鹿豚)、マレオ(セレベスツカツクリ)、タルシエ(最小の霊長類)などの珍しい動物が多い。さらに、過去の北スラウェシは、ポルトガル、スペイン、オランダ、この地域周辺の王国の間の経済的覇権争いの草刈り場となり、最終的にオランダが政治的および軍事的勝利を収め、スパイス、米、金生産地域を支配。この地域は西と東の間の交易の要路でキリスト教、イスラム教、中国の貿易業者によってもたらされた信仰や宗教の普及地にもなった。北スラウェシには、大規模産業としてビトゥンのココナッツオイル工場、天然ガス精練所、ベランミナハサ南東部の金鉱山企業等がある。
- 9.日本との関係
- マナド(Manado)はメナド(Menado)とも表記され、現地ではムナードとかメナード、マナードとか色々な発音をする人がいる。日本のメナード化粧品の社名の「メナード」が色白美人の産地であるマナドに由来しているという説があるが、社名はギリシャ神話の美の女神「メイナド」に由来、マナドの地名とは全く関係無い様である。日本人駐在の中にはこの噂を信じている人はかなり多い。ただ、マナドが日本語の港より由来しているとして、昔日本の侍、海賊(倭寇)達が船を係留していたとの話はある。プラボウォの姪はプレスに、自分たちの先祖に日本人の侍である海賊がいたと述べている。また、女性の敬称に最後に「チェ」と付けることが多く、ある日本レストランで店員さんが自己紹介した際、「加藤茶」ですと聞こえ驚いたが、Katucheで、日本語で言えば「ちゃん」に相当し、チェは可愛いの意味。