
南スラウェシ州
- 1.州都
- マカッサル市
- 2.人口
- 9.139.531人2021年現在)
人口密度 195.63/km2(インドネシアで6番目に人口の多い州) - 3.面積
- 46,717.48 km2
- 4.種族
- 南スラウェシ州の主な民族グループは、ブギス族、マカッサル族、トラジャ族、マンダル族。
- 5.宗教
- イスラム教 88.33%、新教プロテスタント 8.11%、旧教カトリック2.25%、ヒンズー教徒1.02%、仏教徒0.25%、儒教0.04%
- 6. 地理
- 南スラウェシ州はスラウェシ島の南にあり、西はマカッサル海峡、南はフローレス海に接している。伝統的な2本マストのインドネシアの帆船Pinisiは航海民族ブギス族、マカッサル族のシンボルとしてインドネシア諸島間輸送、貨物、島間漁業目的で広く使用されている。15世紀から19世紀にかけての香辛料貿易の黄金時代に、南スラウェシはマルク諸島への玄関口となった。
- 7. 歴史
- 約30,000年前にはスラウェシ島には人間が住んでおり、最も古い痕跡は、南スラウェシ州内マロス県の石灰岩の丘の洞窟で発見された壁画。洞窟内は巨大な豚、絶滅したゾウの骨などまた、ワラナエ渓谷の川のテラスから小石の石器等収集していた。14世紀、南スラウェシには多くの小王国があり、当時の2つの有力王国は、マカッサル周辺にあったゴア王国とブギス王国。1530年、ゴワ王国は拡大発展し、16世紀半にはインドネシア東部で最大の重要貿易拠点となった。1605年、ゴワ王はイスラム教に改宗、ゴワをイスラム王国にし、1608年から1611年にかけてイスラム教はマカッサルとブギス地域に広がった。15世紀以降、南スラウェシは香辛料生産地であるマルク諸島への玄関口として機能し、特にゴワ王国はインドネシア東部の歴史において重要な役割を果たした。オランダ領東インド会社(VOC)は17世紀にこの地域で植民事業を開始。VOCは後にブギスの王子と同盟を結び、ゴア王国を攻撃。ゴワの王スルタン・ハサヌディンは、ブンガヤ・ゴワの権力を大幅に縮小された条約に署名を余儀なくされた。ブギス最大のボーン王国と他のブギスの指導者間の対立は、南スラウェシの歴史の特徴。ボーン女王は、ヨーロッパ本土でナポレオン戦争の混乱の隙にオランダ人ヲ攻撃。しかし、ナポレオン戦争終結後、オランダ人は南スラウェシに戻り、ボーン女王の反乱を制定。しかし、マカッサルとブギスの人々の抵抗は1906年まで植民地支配に抵抗し続けた。1905年、オランダ人はタナ・トラジャを征服、この地域の抵抗は1930年代初頭まで続いた。インドネシア共和国の独立宣言以前は、南スラウェシは、ブギス、マカッサル、マンダル、トラジャの4つの民族が単独で居住する多くの王国で構成されていた。
- 8.経済
- 南スラウェシ州は農業、漁業が盛ん。金鉱山、マグネシウム、鉄、その他非鉄金属が採れる。農業は広く稲作がおこなわれ、北部のトラジャ地方は、観光地やコーヒーの生産地として知られている。木材、特に黒檀の有名な産出地、仏壇等の対日輸出製品を生産。水産物も以前は加工品を日本に輸出していたが、今はマグロに代わっている。
- 9.日本との関係
- 1941 年2月22日、オランダ領東インド在マカッサル日本国領事館が開設。1941 年2月22日、日本軍は英領マレー半島に上陸し米英に宣戦布告。同日、オランダは日本に対し宣戦布告、オランダ領東インド在マカッサル日本領事館、バタヴィア領事館は一斉閉鎖。1977年1月10日、在ウジュン・パンダン日本国総領事館開設。2008年12月31日、改編のためマカッサルの総領事館閉鎖。翌年より在マカッサル領事事務所開設。日本のアジア最大の医療NGOのインドネシアAMDA(アジア医師連絡協議会)の本部がマカッサルにあり、自然災害の際は、日本より医師が派遣され医療行為を行うことで有名。会長はタンラ広島大学医学部卒の元ハサヌディン大学医学部長。マカッサルはガルーダ航空貨物便によるマグロの関空への空輸の起点になっている。ヌルディン南スラウェシ州知事は10年間バンタエン県知事を歴任、日本との関係強化に大きな功績を残し、州知事に当選した。しかし、2022年1月12日、ジョコ・ウィドド大統領は大統領令第9/P/2022号に基づき、ヌルディン南スラウェシ州知事を解任。ヌルディン知事は九州大学農学博士を取得、日本語堪能の将来を嘱望された有能政治家であったが、収賄汚職により逮捕された。