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インドネシアあれこれ

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日蘭会商の失敗及び大洋丸の撃沈と日本・インドネシア関係の悲劇の背景、及び今後の2国間関係について

現在の日本とインドネシア関係を除いて、スハルト政権末期、ハビビ政権までの経緯を見ると、何故か過去からの悲劇の連鎖にも思える。日本の対インドネシア政策は、太平洋戦争の期間、最初から最後まで日本陸海軍の意見の一致を見ないまま、推移し終戦を迎えている。戦後の2国間関係は経済・資源重視の面が強く、対インドネシア政策は冷戦後の民主開放化の激変の中、日本の影響力は矮小化され、それに替わり中国が台頭し経済的影響力が増大している現状です。これからのインドネシア、および日本とインドネシアの二国関係の主役は国民であると考えますが、今回は歴史を振り返る観点から、日蘭会商の失敗及び大洋丸の撃沈の悲劇に関して配信します。日蘭会商が失敗に終わった理由はスパイの存在と言われており、太平洋戦争当時も日本側の暗号は殆ど解読され、初めから負ける戦争だったと思われます。諜報に関し、日本は今でも無防備で、余り変わってないとも思われますが、その悲劇の背景及び今後の2国間関係につき配信いたします。
1. 日蘭会商の失敗の背景
(1) 日蘭会商は戦前2回行われ、当時オランダの駐在武官でその後の在ジャカルタ海軍総督前田少将も参加していた。しかし、2回共日本側の交渉意図はオランダ側に漏れており、最終的に日本の石油資源獲得には至らず失敗したと言われている。それは在ジャカルタのある日本人がオランダ外交記録公開文書を精査し判明した。右によると、通訳は某日本の大学のオランダ語専門家、日本の意図は最初からオランダ側に読まれていた。
(2) 第一次日蘭会商(1934 - 37)は石沢・ハルト協定(日蘭通商仮協定)の締結によって一応の妥結をみたが、第二次日蘭会商(1940 - 41)は日独伊三国軍事同盟の締結、1941年7月の日本軍による南部仏印進駐を切っ掛けに蘭印側は日本との経済協定を破棄、石油輸出も全面停止(80%は対米石油、残りは蘭印石油)、以降、悲劇の連鎖として太平洋戦争開戦と共に日本軍の蘭印作戦と繋がって行く。
(3)失敗の主因は最初から戦略物資の確保の観点より交渉代表は小林一三商工大臣、そして陸海軍の参謀も参加、更に、日本側は蘭印が東亜共栄圏の一員であることを表明すること、インドネシア人に自治権を付与すること等を迫る態度を示し蘭印側の警戒感を一気に高め、1941年1月15日には代表を元外務大臣の芳沢謙吉に代えて再交渉を開始するが全ては失敗した。
2. 日蘭会商の重要性とその意義
(1)インドネシアは石油、天然ゴム、ボーキサイト、マンガン、ニッケル、錫、銅、金銀、石炭、キニーネ等多くの重要資源を産する世界有数の資源大国、太古の昔から、現在、未来にかけてもその位置付けは変わらないと言われている。当時、圧倒的に経済力、資源に於いて敵わない米国との開戦を決心した背景は、インドネシアの重要戦略資源を確保するとの前提にあったと言われ、取らぬ狸の皮算用の下、開戦、真珠湾を奇襲、同時に蘭印侵攻(実際はマレー半島上陸の方が早かった)した。
(2)蘭印側は日蘭会商決裂だけは回避する引き伸ばし工作を行い、その結果、1941年6月17日、現状の経済関係の維持と一部地域での石油採掘権の日本側への提供案まで示していた。しかし、無謀にも7月日本軍は南部仏印進駐を実行、これで米蘭対日石油供給は100%停止、自殺行為に走ったのである。当時のインドネシアは日本に取って死活的に重要であった。
(3)当時日蘭共に日蘭会商の意義は認識、重要視し2回に亙り、相当のハイレベルの人物を充て、蘭側はファン・モ―ク蘭印経済長官、元ロイヤル・ダッチ・シェル・スタンダード・オイルの代表が交渉に当たった。しかし、双方とも同床異夢で平和的解決には至らなかった。
3. 大洋丸の背景と役割
(1) 大洋丸は1万4,000トンの船で、当時としては大型客船、第一次世界大戦でドイツから賠償船として譲渡され、1921年、後の連合艦隊司令長官となる山本五十六少佐(当時)が大洋丸に乗船、アメリカでの国情研究から帰国。
(2) 太平洋戦争開戦直前の1941年11月には大洋丸は邦人引き揚げのためハワイ真珠湾に入港。その際、船の事務員と偽った海軍参謀が乗り込み、真珠湾のアメリカ艦隊を偵察するという軍事上の重大任務を果たしている。
(3)なお大洋丸はハワイまで一般的な航路を利用せず、北寄りの真珠湾奇襲部隊の予定航路を取った。これは真珠湾攻撃を想定、航路上の実際の気象や海況、敵の哨戒状況などの調査を実施。真珠湾内では水深まで図り、水深の浅い酸素魚雷の効能調査まで実施した。
4. 真珠湾攻撃と大洋丸の悲劇
(1)大洋丸はハワイに到着すると、真珠湾が一望できる桟橋の一番外側に接岸、大型船でデッキが高かったこともあり、停泊しているアメリカ艦艇の種類や緊急着陸可能な地点を把握することができた。                                                                               
(2)11月17日、大洋丸は横浜に到着、海軍諜報参謀が持ち帰った真珠湾の最新情報が伝達され、これは、攻撃隊が最終演習を終えて本土を出発する1日前のこと。
(3)当時では超大型の客船大洋丸は正に日本の命運をかけ真珠湾攻撃航路を事前航海し、その後、陸軍の大命を帯び開戦5カ月後、インドネシア開発の夢を乗せ南下するが、陸海軍ではそれをフォローする体制は取っておらず、ほぼ無防備のまま米潜水艦の魚雷攻撃を受け沈んだ。
5. 大洋丸の撃沈の背景と理由
(1)開戦後、占領予定の東南アジアの資源開発等のため、商社マン・技術者などを乗せた、大洋丸は1942年5月5日広島・宇品港を出発。そして、出発間もない1942年5月8日、アメリカの潜水艦によって魚雷攻撃を受け東シナ海で沈没、800人以上が犠牲となった。
(2)当時日本はインドネシアを占領し、資源開発に成功すれば、対米戦に勝利できると考えていた様である。この船に乗っていた者は台湾の不毛の土地に鳥頭山ダムを建設し台南を豊かにした八田興一も含め、三菱、三井等の各企業が選りすぐった、各界のエキスパート達で、当時日本の頭脳と言われた人々であった。
(3)出港前、日本軍が破竹の進撃を続ける当時、大洋丸が撃沈される可能性は殆どない無いと考えられており、慢心と油断があった。門司で炭水を補給、関門海峡にある六連島に移動し、他の民間船とともに5隻の船団を組み、護衛として商船を改造した特設砲艦北京丸が付いた。
(4)船団速力は最も遅い御影丸に合わせた9ノット(時速約17km/h)。大洋丸の原田船長はそんなに速力を落とすと、機関整備が困難になるほか、敵潜水艦の危険率が高くなると強く反対したが、受け入れらなかった。最大速力17ノットの大洋丸にとっては金縛りの航海となり、先頭にいた大洋丸は魚雷を受けてから約1時間後沈没、国運を背負った大洋丸の駆逐艦の護衛も無く、真珠湾からの諜報行動は米国側に察知され、悲劇が起きたものとも思われる。
6. インドネシア開発の遅れと敗戦の背景
(1)大洋丸撃沈によりインドネシアの戦略物資開発は2年遅れ、バンドンで航空機組み立て生産を開始したが、体制を挽回することは無く敗戦に至った。
(2)八田興一等当時世界レベルの民間人頭脳を失った日本政府・軍部は戦争後半に至り、優秀な役人集団を蘭領インドネシアの資源開発に派遣。当時スマトラのアサハン開発も実施し、そしてバンドンでは中島飛行機工場、技師養成学校設立等実施。当時は石破議員の父親、石破二朗は内務官僚としてスマトラ開発を担当、後の武安剣道連盟会長、科技庁事務次官はバンドン飛行機技術学校校長として人材育成を担当。
(3)陸海軍は別個に幹部養成学校を設立、その後のインドネシアの指導者を育成するが、スハルト大統領(陸軍大将)、アリ・サディキン海軍中将等多くの人材が育成され、人材育成の面ではインドネシア側より評価されている。右以外に前田海軍総督はインドネシア養生塾でスカルノ、ハッタ、スバルジョ等一体となり、多くの青年指導者・政治家を育成したことは有名である。
(4)然しながら、戦時中に実施した資源開発は殆ど中途半端で敗戦に至るが、多くの日本人技師は戦後、インドネシア資源開発の夢を抱き続け、北スマトラ石油、安宅石油、アサハン・アルミ・プロジェクト等早い段階で実現している。
7. 太平洋戦争後、インドネシアに賭けた日本の夢
(1)石原莞爾が理想の帝国とした五族共和の満州の夢を戦後、石原莞爾の弟子と言われた同郷山形県選出の木村武雄自民党議員は、就任直後のスハルト大統領に、インドネシアこそ理想の五族共和国になってほしいとして、スマトラ開発、アサハン計画等推進し、毎年若手代議士を連れてインドネシアを訪問、若手代議士を中心とした「晴嵐会」を創設した。別名、石原莞爾の会で石原会とも称した。
(2)特に渡辺美智雄、石原慎太郎、中川一郎、玉置和郎、加藤六月、土屋義彦、浜田幸一、中尾栄一、野田毅、三塚博、小沢一郎ら当選したての1年生議員をスハルト大統領に紹介、多くの親インドネシア派の若手政治家を育成した。和歌山県選出の玉置和郎のインドネシア関連の政治地盤は村上正邦、二階俊博議員に引き継がれていく。
(3)木村議員は旧政友会の生き残り議員、田中派結成に貢献、当時は元帥と呼ばれており、没後スマトラのアサハン・プロジェクトの地に分骨した程、インドネシアを愛し、山形師団が多くの戦没者を出した激戦地パプアの元日本兵の遺骨収集には親子二代に亙り、インドネシアと交渉したが、当時治安の問題で実現せず、現在に至っている。
(4)冷戦当時は反共インドネシア支援の旗印の元、活躍した多くの政治家達は、冷戦終了後、インドネシアの民主開放の流れの中、自然淘汰され、現在、それらに代わる人物、人的流れは見られない。
8. 今後の二国間関係の主役
(1)今後の二国間外交の主役は国民であり、インドネシア側は元日本留学生、研修生だと思われる。明らかにその主役として台頭してきたのは2004年12月26日のアチェ大地震と津波による災害、および2011年3月11日の東日本大震災による津浪による災害がもたらした未曽有の被害発生から、双方の国民間の助け合いと連帯と絆の関係が生まれた。
(2)アチェ災害支援として日本政府は500億円の緊急無償援助を行った他、早い段階から日本国内から多くのNGOがアチェ被災地に入り込み支援を実施、孤児支援、女性自立支援等多くを実施。東日本大震災の際はアチェの学生、若者達が今度は自分達が支援するとして街頭募金等集めて、夜行バスで在メダン総領事館まで何回も届けた。そして、インドネシア各地で絆の下、日本文化祭が行われ、以降日本とインドネシアの市民、草の根間の連帯感が強まりつつある。
(3)現在、インドネシアの民主化以降、二国間関係の主役はインドネシア側に於いては元日本留学生(元日本留学生協会プルサダ)になりつつあり、政・官・民・学各界に於いて彼らが台頭し始めている。各省次官、総局長、知事、副知事、市長、学長、会社社長等、特に地方政府には元円借款留学生が多く活躍している。
(4)所謂、BPPT(科学技術応用評価庁)のハビビ円借款留学生は博士、修士号を取得した者が多く、インドネシア政府内に止まらず、日本国内の教授、各機関で活躍している。
(5)3年前、この円借款留学生が創設したIJBN(インドネシア日本ビジネス・ネットワーク)はハルタルト経済調整大臣が名誉会長、両国大使も名誉会員として参加、定期的なズーム会合を行い、大臣、大使、州知事、市長、総領事、JICA, JETRO、各企業社長、役員等が参加、開発投資等に関する熱心な協議を行っており、今後とも元日本留学生(ギナンジャール会長、ゴーべル理事長)の役割と活躍に大きな関心と期待が集まっている。